エミリー・ディキンソンの頭上から見つめる(感受する)視線
ぼくが好きな詩人のひとりにエミリー・ディキンソンという人がいる。
机の上にある『対訳 ディキンソン詩集』(亀井俊介編)から、ぱっと開いた目にした詩を引用する。
わたしがもう生きていなかったら
わたしがもう生きていなかったら
駒鳥たちがやって来た時―
やってよね、赤いネクタイの子に、
形見のパン屑を。
深い眠りにおちいって、
わたしがありがとうをいえなくっても、
分かるわね、いおうとしているんだと
御影石の唇で!
どうっすかね。ぼくはこの、自身が死んだあとのやすらかな佇まいのようなものが好きなんです。あと「やってよね、」というところも好きです。(まあそこは翻訳だからなんともいえないんだけど 笑)
あとパラパラめくってみたら、これも好きだったことを思い出したので、引用します。
わたしは葬式を感じた、頭の中に
わたしは葬式を感じた、頭の中に、
そして会葬者があちこちと
踏み歩き―踏み歩き―とうとう
感覚が破れていくように思えた―
そしてみんなが席につくと、
お祈りが、太鼓のように―
響き―響き続けて―とうとう
わたしの精神は麻痺していくような気がした―
それから彼らが棺を持ち上げ
またもや、あの「鉛の靴」をはいて
わたしの魂をきしみながら横切るのが聞こえた、
そして天空が―鳴りはじめた、
まるで空全体が一つの鐘になり、
この世の存在が、一つの耳になったかのように、
そしてわたしと、沈黙は、よそ者の種族となって
ここで、孤立して、打ちくだかれた―
それから理性の板が、割れてしまい、
わたしは落ちた、下へ、下へと―
そして落ちるごとに、別の世界にぶつかり、
そして―それから―知ることをやめた―
ぼくは「この世の存在が、ひとつの耳になったかのように、」ってところも好きなんですけど、この理性の板が割れていって、別の世界にぶつかり、知ることをやめる、ってところがめちゃくちゃ好きです。
ちなみに、ディキンソンの顔はこんな感じです。
世界にきちんと存在が座っていて、かつその視線は、どこか遠方を、すこし上空から見つめるような感じ。まるで、生と死で分けるようなものではない、もうひとつの視線があるとのだと思わせる。そんな感じがして、とても好きです。
劇的に何かを描くのではない。むしろつねにこの世界で起こっていることそのものを見る。宇宙のうごきそのものをなぞっていくような詩の線。そんな感想を抱いたり。
彼女の詩を筆写しているけれど、この視線から、学ぶことはいっぱいあるんだろうな....
最後に友達に教えてもらってハマった曲をのせます。
いつかポケモンとなかよく過ごせる日々がきたらと、思ったりしちゃう。