鎮魂の言語-部屋とゴーストと私-

不動産系で働いている弟に聞いたことがある話で、すごく興味をもったのは、彼曰く、いわゆる事故物件と呼ばれるものを見たときに感じる特徴は「時間が止まっている感じがする」という話だ。

 


本来は時間が流れてゆく人間社会の秩序の中で、例えば、自殺をしたという事実によって、生者が恐れ、その物件を開かずの間にしてしまうことによって、空間は閉鎖系となり"時間が流れなくなってゆく"。


世界の時間は流れている、ということの証明を、ここですることは私には知識がないから難しいけれど、体感としてはわからなくもない。

事故物件は、開かずの間になることで、本来人が住むときに流れるはずの時間が流れてゆかず、かつての時間が留まってしまうことで、その流れは滞留する。おそらく、その秩序の裂け目というか、壊れの中にゴーストは徘徊するのだと思う。


おそらく、それは事故物件に留まらない。もしかしたら、交通事故の場所にだってあり得る話だ。

人が通りゆく場所に「ここはかつて不慮の事故が起きた場所」として、人々がその空間を見ないことにするならば、その空間もまた、その事故が起こった場所の時間のままに留まるだろう。


もし仮に、そんなゴーストと向き合うときに私たちに必要なことは、そのゴーストが留まっている理由を解きほぐし、どこへ繋がっていくと風通しの良い方向へ行けるのかを示すことだ、と思う。


例えば、死者に語りかけることでいうのなら、ゴーストを、留まっている所から新たな繋がりの中へ繋いでゆくことだと思う。お経というのは、生者が死者としてあの世に行けるように橋渡しとして言葉を紡いでゆく作業なんじゃないかなと想像するけれど、それが生者の側の鎮魂でしかないことだだってあると思う。

 

つまり、死者がゴーストになってしまっているのだとするならば、ゴーストがどこにいて、どんなことに想いがあって、この世界に留まってしまっているのか。そこからあの世に行くためにはどんな言葉を語りかければ良いのだろうか。

そうした、生者にとっての鎮魂であり、死者にとっての鎮魂として言葉が発されてゆくこと。これこそが、本当の鎮魂の言語なんじゃないかって思う。


生きている人が違っているように、死んでいる人だって違っている。とまあ、ここで思うのは、死者を読むという作業が鎮魂には必要なんじゃないかって事なのだが....。

VS 妖怪なるもの- Google、水晶、身代わり地蔵-

私が、人は「目に見えないもの」によって、人生を阻害されうると思い始めたのは、弟のことがあってからだ。

 

弟は学生時代に独学で宅建を取り、不動産会社に就職した。

通常、宅建の資格は会社に就職後に取得することが多いらしいが、弟は学生の頃から不動産業界で働くことを決めていたので、学生のうちに所得し、期待の新人として会社の1番売り手の地区に配属された。

 

しかし、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月経っても契約が取れない。同期たちもビギナーズラックのもとに少しづつ契約が取れていく中で、弟だけが一件も契約が取れないまま、半年が経った。

 

久しぶりに弟と会って食事をした時、弟はかなり憔悴していた。

ストレスで抜け毛も増え、眠れないからといって、お酒が苦手なのに、毎晩ウイスキーをストレートで飲んでいると話していた。

 

 

ところで、話の途中に突然で恐縮だが、私はある時から、人についている「目に見えないもの」を感じ取れる身体になった。もちろん、いわゆる霊能者のような「視覚的に見える」わけではない。例えば、「この人の後ろには妖怪なるものがついている」という前提を言葉でイメージして、その人を見ると、筋肉反応として身体が震えるのである。いわば、レーダーのようなものなのだと思う。

 

なぜそんな身体になったのかの説明は別でするとして、とにかく私は弟の後ろに「妖怪なるもの」がいないのかを見ることにした。すると、身体に大きく反応が出てしまった。

 

これはまずいと思い、その翌日、私は恩師のもとに行った。

この恩師というのも別で紹介するとして、とにかく、私のレーダーのような身体を伝授してくれた人なのである。

 

 

  「弟の後ろに妖怪がついている気がするんですけど、どうですか…?(弟の写真を見せながら)」

恩師  「おおーっ、(身体を震わせながら)確かに後ろに大きいものがついているね。可哀想に、、、」

私.  「彼、仕事がうまくいかなくて困っているみたいなんですけど、これって取れますかね?」

恩師「うーん、僕一人だと力が足りないから難しいけど、君と二人ならできるかも。ちょっと待ってね」

 

恩師はおもむろにパソコンのデスクトップの前に座り、Googleを立ち上げ、検索し始める。

 

恩師「僕の高校時代の友人がね。エロ雑誌ばっかり作ってた男なんだけど、今は住職をやっててね。彼のお寺には「身代わり地蔵」と呼ばれる地蔵があって、昔それを見た時、いやなものがべーっとり付いている気がしたの。だから、もうそれにくっつけちゃおう!」

 

私「くっつけるなんてできるんですか?」

 

恩師「できるよー!でも、あれだなあ。。直接我々を経由するのはよくないから。一度、何かを経由させた方がいいね。そうだ!あの水晶にしよう!」

 

身軽な恩師はトコトコと部屋にある水晶を取ってきて、Googleの画像検索内で「身代わり地蔵」が表示されたデスクトップ前に座る。

 

 

つまり説明すると(説明になっているのかわからないけど)、

 

  1. デスクトップ上の弟の写真に映る「妖怪」!
  2. その「妖怪」を水晶に移動!!
  3. 水晶に移動した「妖怪」を、デスクトップの「身代わり地蔵」に移動!!!

 

この手順で、弟から「妖怪」を取ろうという流れである。

もはや全てがリモート作業だが、私は取れればそれで良いので、恩師と一緒に取り組むことにした。

 

この作業で私が意識したことは、弟の写真から妖怪を感じた時の感触を頼りに、その感触を引き連れながら、目の前の水晶にパイプを繋ぎ、妖怪を移行させるイメージで手招きをすることだった。(手招きをすることで、より自分の中で、イメージの具現化ができる気がした)

 

ある程度、妖怪の感触がなくなってきたら、水晶を見つめ「この水晶には弟についていた妖怪が入っている」という前提で見る。そうすると、身体に強く筋肉反応が出たので上手くいっている気がした。その要領で、水晶から「身代わり地蔵」に移行を試みる。

 

その移行中、恩師は「ううっ!ううっ!」と呻いていた。

 

恩師「呻いているでしょう、、、!これはね、妖怪の、、ううっ!呻きなんだよ!」

 

ここまでの作業を受け入れている私は、もう何も驚かない。

 

そう言うのならそうなんだと思い、妖怪の感触がなくなるまで、移行の作業を5〜10分ほど続けた。感触がなくなったので、二人とも作業を止めて落ち着いていると、驚くべきことが起こった。突如、弟からメールが来たのである。

 

 

「アニキ、おれに何かした??身体が軽いんだけど」

 

 

恩師と私は驚き、すぐに電話をした。

とにかくついていると思われるものは取れたから、自分が言ったことについては安心してほしい。けれど、これはカタチのない話だから、こちらがやったことはおまじないのようなものだと思う。でもうまくいくといいね、頑張って伝えた。

 

 

すると、さらに驚くことがあった。

なんと、その翌日立ち会った案件で、弟は見事、契約を取ってきたのである。

 

自分で書きながら全てがマンガのような話だと思うが、マンガのような話なのだから仕方がない。しかし、そんな不思議に満ちた世界だからこそ、その不思議さの切れ端をもとにした想像力で描かれたのが、マンガではないのか、とも思う。弟はそれから元々あった実力に見合った結果を出し続け、今は最年少で支店長になったり、着々と自身の道を歩んでいる。

 

今思えば、自分が言葉でつかまえた「妖怪なるもの」は、生命の働きを阻害する何かだったのかなと思う。弟のもっている生命の働きを阻害するもの。それが妖怪だったのか。そういえば、弟はどこでその妖怪をつけてきてしまったのか。事故物件などでつけてきてしまったのか。

 

あれから、弟は自身の感度が上がってしまったのか、事故物件に訪れると、何か「イヤな感じ」を感知してしまう身体になってしまったらしい。そんな弟と電話した時、事故物件についてこんな風に話していたことを思い出す。

 

「アニキ、事故物件はね、なんか時間が止まっているんだよ。そう感じるんだ」

 

 

新春!ゴーストと向き合う!

年始早々、ゴーストと向き合う事があった。

そのゴーストとは父方の祖母だ。訳あって自分は一度も会ったことがない。

 

祖母は数ヶ月前に亡くなっていたが、過去に自身の家族に対して取り返しのつかないことをしてしまい、その後悔が晩年もあったと聞いていたから、この世から去ることができるだろうかと心配していた。(1)

 

母に相談したら、四十九日までは待ってみたらとなったので待ってみたが、その後に探ってみると、やっぱりこの世にいる気がした。

 

親父から借りた祖母の数十年前の写真、晩年住んでいたという家の写真を机に並べ、祖母がゴーストとしてどこにいるのかを探る。どうやら、晩年住んでいた家の寝室らしき場所にいると反応が来たので、そこにあたりをつけて、一方的に心の中で沈黙の会話を試みた。(ゴーストにはまずは話しかけてみる他ないからだ)

 

 

おれは死者の世界に行ったことがないから、ゴーストである祖母にどこに行ったらよいのか、具体的に示すことができない。

けれど、死者がゴーストとしてこの世界に呪縛されていることはよくない気がするから、そのことは伝えられる気がした。

 

 

ゴーストである祖母に向かって、言葉を伝えていくと、自分の身体に鳥肌が立ち、たしかな感触がある。

 

「ここにいても誰も会いに来れないよ。だから、ここにいない方がいいんだよ。あなたの息子がお墓を作ったよ。みんな、そこに会いに行くから」

 

「息子たちは自分を赦してないと思っていると思う。けど、ここにいることを望んではいないよ。僕の親父は産んでくれてありがとうって言ってる。だから、もういいんだよ。本当に申し訳ないと思っているなら、天に上がって、そこから息子たちを守ってあげた方がいいよ」

 

 

気のせいかもしれないけど、言葉を明確にして伝えていくと、ところどころで、悲しい気持ちが湧いてくる。

それが、ゴーストである祖母の感情なのかはわからない。

しかし、その気持ちに寄り添うよりも、それは、ゴーストである祖母が反応してくれているというシグナルとして受け取る、という方が良い気がした。

 

10〜15分くらい語りかけていくと、ゴーストの体感が自分の中で消えてきたので、再び探っていくと、寝室らしきところにはおらず、家のあたりにもいない気がした。

おそらく、上に上がったのだと思いたい。不思議と、写真から発されていた、重い空気も抜けていった気がする。

 

本当にゴーストがそこにいるなんてわからない。

おれはゴーストを見たことがない。しかし、目に見えないが、見えないままにそこにいることはわかる気がする。

 

この一連の作業は、正直、おまじないのようなものだ。

けれど、このおまじないとは、死者の為でもあり、その死者と関係しうる、生者の為のものでもある気がした。

 

言葉によって、死者を代弁することはできない。

生きている人でさえ、代弁することも難しいのだから。

しかし、言葉が、死者へと繋がりうる媒介となりうることだけは、今後もふと考えてみたいと改めて感じる正月だった。

 

 

(1)おれは荒川修作というアーティストが唱えていた、「人は死なない」という言葉を一時期すごく気にしていたが、それよりも、茂木健一郎が東京藝術大学の講義に荒川修作を招いた時のレクチャー「噴火し、遍在せよ!」の中で、荒川が「人は死なないんだ。正確にいうと、死ねないんだ」という言葉の方が気になるようになった。それ以来、私はちゃんと死ぬこと、消えてゆくことは案外難しいんじゃないか、と思うようになったから、死者が消えてゆくことに、すごく関心を持つようになった。

先日、恩師や友人と話したこと

先日、恩師(@prince9093)と久しぶりに話して面白かった疑問、面白かったことをメモとして残すことにした。

 

①なぜ、ピカチュウは世界で愛されているのか。その説明はとてもむずかしい

 

②現実と接続し続けるポケットモンスターの「ニッポン」列島と桃鉄(桃太郎電鉄)の失墜、まずは田中角栄の問題から

 

※それと、桃鉄は地方出身者が好きになる傾向がある。日本はどこへの目的地を決めることはできでも、どこかからの出発地を決めることが難しいので、地元から移動するストーリーがある人の方が馴染みがあるからだ。


③世界中で流行しているポケモンカードのトレーディング(交換)に柄谷行人は感応できるのか。

人をわくわくさせてしまう交換、そういう交換こそが大事なんじゃないか。

しかし、かつて寿司屋のカウンターに座るなり、1番目に「いくら」を注文してしまう柄谷の逸話を思うに、彼は天然ボケではないのか?


④季節を背負う者としての俳優・アイドル論

季語のように、春夏秋冬のそれぞれのイメージを背負いながらドラマを演じる俳優・アイドルがいる。近年だと、森七菜は『真夏のシンデレラ』で夏を背負いかけたが...

 


⑤シンガー/ソングライターにスラッシュを

シンガーソングライターは自身で曲を制作するのので、その曲を書き、読み、書いてゆく完成までのプロセスを読んで歌っている。

シンガーは、書き終えられた時点の完成した曲を提供され、その歌を読み、理解し、歌っている。

つまり、どちらも最終的な地点で「歌う」のは同じだが、「歌う」までのプロセスが異なる。この両者の才覚は、別々のものとして捉えたほうがよいのではないか。

 

⑥果たして、小説を「たくさん」読むことは、重要なことなのだろうか。

しかし、小説を書くことで自分のなかに起こることは大事なことかもしれない。

世界の文章は「小説か、小説でないか」の2つで分けてみるのはどうだろうか。

 

個人投資家のB・N・Fは、お金の流れの交感によって世界と生きていたのだと思う。

自身ではコントロールのできない流動性を渡り歩くこと。その流動性を読むこと。

 

 

そして、友人(@MakingYasashisa)と話して面白かったこともここに残しておきたいと思った。


①世界の結節点を探すこと。それが私の生きた情報体(ネットワーク)を浮かび上がらせる方法なのだ。


世界を理解しようとする時、AとBとの間に理解の橋を架けられない時は、Aとの間に文脈があり、Bとの間にも文脈がある媒介項としてのCを見つけることが大事だと思う。A→Bじゃなくて、A→C→B。

 


「わからなさ」がある。その「わからなさ」は今の自分にはわからないが、たとえば、自分が興味を持っていた人がわかっている場合がある。

わかっている人が、どのようにわかっていたのかがわかれば、「わからなさ」に対して、ひとつの回路をつくることができる。

自分がわかっているところからわかっていないところへ接続しうる媒介を見つけていく作業。

これができてくると、大抵の「わからない」が永続的なものではなく、「まだわからない」という"状態"であるということがわかってくる。

 


②A→C→Bと媒介項が発生してゆくと、AとB、BとC、AとCという繋がりが生まれる。

何かを理解しようとする度に、媒介項ができてくると、それぞれの繋がりが強くなったり、新たな繋がりが生じてゆき、自身の世界のネットワーク=情報の濃度が増してゆく。あらゆるものに繋がりうることが見え、つかめてきたとき、人は「真理」のようなものが体感できてくるのかもしれない。

 


② はたして、情報には生死があるのだろうか。

 


To die - without the Dying

And live -without the Life

This is the hardest Miracle

Propounded to Belief.

 


臨終なしに死ぬこと

生命なしに生きること

これが一番、手きびしい驚異だ

信仰へと差し出されて

 


これは、エミリー・ディキンソンのとある詩だ。

「生命なしに生きること」、このことについて、時折考えてきた。おそらく、これは自身が「情報」になってゆくことなのではないだろうか、という仮説が浮かんだ。まだうまく言葉にはできない。しかし、情報には生死という概念がない、というのはひとまずの仮説ではある。


③気体、液体、個体というように、情報にも似た状態の区分があるのではないだろうか。

 

その意味で、知識は情報の固体、知性は適応性のある流動的な情報の一形態、真理は一定の形をもたず、あまねく自由に流動する情報など...

Yesであれ、Noであれ、あるいはどちらでもなくとも、痕跡となりうるようなものが、誰かに届けられたことが、重要だ。

 

ここ最近のこの国の「政治」と呼ばれている状況、参政党のこと、30代前後の芸能の人たち(あるいは、その人の発言が、大衆にもたらす影響力のある人たち)の「選挙に行こう」という言葉を見た時、これまで「政治」と呼ばれるものに対して、強く心に引っかかったものって何だろうと思うと、個人的には、SEALDsのことを思い出す。


好き嫌いで言っていいのかわからないけど、個人的にSEALDsのことはそんなに好きではなかった。

と言いながら、別に、SEALDsに参加していた人たちに詳しかった訳ではない。あくまで、テレビやSNSで見た印象に過ぎないし、SEALDsにいた人たちと話した事もあったけど、腰を据えて話したといえるくらいに、一緒の時間を過ごした訳ではない。


ただ、当時の自分の心の声を思い出すに、「でも、自分のしたいことはこれじゃないと思う」だった記憶がある。だから、それは、自分がこれから見つけてゆきたいスタンスのようなものを、問われたし、問うていた時機だったのだと思う。


でも、自分のような、当事者の近くにはいないけれど、ほんの少し、自分のこと以外や自分たちを含めた「社会」と呼ばれるものに対して、思わないことがない訳でもない人に、何かしらの心のリアクションをもたらすくらいに、SEALDsの人たちの運動って影響があったんだなって、今になって思う。そういう、触発って大事だったんだなって思う。


だから、今、彼らが運動していた時期に出した本を読むと、スーッと心に入ってくる。

 


あの頃は思わなかったけど、意外にも、「政治」というのは、至るところにある。誰かと共に生きていく時に、目の前にやってくる問題に対し、なんとかやりくりして、ものごとを運んでいこうとすること、それもおそらく「政治」だからだ。


どうしたら、自分と違う人たちや様々な者たちと、うまく生を営むことができるのか。(それは時に死者との向き合い方であったり、未来の人たちにも関わることであったり、人間以外の生命との過ごし方であったり、生命を超えたものとのやりとりだったりもする)


こんなシンプルなことであり、意外にもそれが、ひどく難しい。しかし、こんなにも面倒くさくて面白いことも、ないのかもしれない。


おれは、昨今の「参政党」と呼ばれる人たちの「参政」とSEALDsの人たちの「運動」って全然違うんだろうけど、何が違うんだろうって思う。


その事はふたつのことをまだ全然知らないから、まだうまく言えないんだけど、でも、考えるのは、いいのかもって思ってる。

なぜ、この世界に「伝説」があるのか。そこから「伝える、伝わる」ことを思う。

昔は、自分の思っていること、考えていることは、伝わらなくてもよい。自分ひとりがわかっていたら、それで充分だ、と思っていた。

 

しかし、自分の思っていること、考えていることがどこからやってきたのかと言えば、それは自分以外の誰かから伝達され、生まれているのだから、伝える、伝わるということは、自分が生きるうえで、誰かと生きるうえで、とても大切なんだと思うようになった。

 

ひょっとしたら、読む、書く、話すことは、その伝達の純度をあげていく作業なのかもしれない。

ものごとがより伝達されるための作業。それは、読む、書く、話すだけでなく、たとえば、歌い、踊る、描くなど、おそらくすべての表現に重要なこととして、関わっていると思う。

 

言語を介さないしぐさでも、何をしているのか、

何をしようとしているのかの伝達の純度をあげていくことが、自分以外の誰かに、共有したいことを伝える上で、大切になってくる。

ただ、その伝達の純度が、必ずしも「わかりやすさ」に繋がっているとは限らない。伝達の純度は高いのに、受信側がその伝達されていること自体を知らなければ、気づかなければ、通り過ぎてしまうことだってある。ここが、難しい、と思う。

 

おそらく、まだ自分のところにしか訪れていない思いや考えていることは、自分の中には、伝達を受信できる何かしらの回路を作れているのだけど、それが、誰かに共有しうるような、目に見える形になっていない。

だからこそ、それが他人に伝わらない、伝わってないことが起こる。自分に伝達されていることを形にすることで、初めてそれが、この世で伝達されている、されうることであり、共有しうるものとして、数えることができる。

 

なぜ、人は「伝説」という言葉に特別な意味を感じるのだろうか。おれは、そういうところに人間にとって「伝える、伝わる」ことの大きさについて思ってしまう。

 

 

2025 6/28

休日、街を歩いていると、居酒屋で大人たちが飲み交わしていたり、子どもたちが家族と楽しく歩いていたり、走り回っている光景を目にする。


誰かが、誰かと、生きている。そんな姿を見ると、なんだか幸せな気持ちになる。ずっとこうあって欲しいなと思う。そして、人は、人と話している時に何を交わしているのだろう。人と人の間には何が交流しているのだろうか、と思った。逆に交流しあうことが「人間」なのかもしれない。


人は誰かが、話したり、歌ったり、踊ったり、演じたりしている姿を見て、なぜか喜んだり、熱狂したりする。この一連は何なのだろう、とふと思う。もちろん、殺し合うより、全然いい。でも何で、こんなことをするんだろうとも思う。


歌や演奏を聴いたりすると、自分の中から、普段意識できていない深いところから、世界全体を包もうとするような優しさ、この世界に存在し、見てきたことがある悲しみ、見てはいないけど想像しうる悲しみなどが浮かんでくる。

 

それらは、普段の日常の仕草によって、到達したり、伝達することがむずかしい心地ばかりだ。

もしかしたら、そのむずかしい心地たちを確かめるために、表現なるものはあるかもしれない。