2022/2/12 13:55
どうでもよさとかけがえのなさをもって、動いていく。でも、どちらもこの見方自体が、人間っぽい。
人間でありながら、人間でないところ。そんなところに憧れている。おれはいまだにワナビー?
2022 2/5 12:20
人間には、どこか穴がある。
その穴を埋めようとすると、穴であるから埋まらずに、ひたすら「満足のできない」状態が続いてゆくけれど、その穴をひとつの通気孔だとすれば、それこそが、わたしからわたし以外へ/わたし以外からわたしへ、つながってゆくものとなり、わたしを開かれたものとしていくような気がしている。穴は暗がりだから、はじめはそうは思えないかもしれないけど。向こうから風は吹いてきている。風の吹かれ方はこちらのあり方によって動きを変える。
風通しのよさ、ということにこだわればわたしは一切のものと境を見ることもできながら、境がないところにいけるのかもしれない。
誰もいない部屋、というのが好きなんだけど、
それはやっぱあれかな、気配があれば、充分ってことなのかな。
2022/2/4 21:11
知りたいのよ、この世界のことを。この世界をわかってしまいたい、というよりも、知っていく最中にいつづけたいって感じ。
2021/2/4 10:10
一貫している、という言葉を人にたいして使うということは、人はまばらだ、ってことになる?。
まばらなわたしは、「私」としても、とらえることがむずかしく、「私」があずかり知らぬところでも、わたしが生成しているってことなのかもしれない。「私」が確保できる「私」の域は、たいてい目の前だけど、目の前以外の「私」もこの世界にはいるのかもしれない。でも、目の前以外の私に関心を持つことって、、、
2022/1/30 15:00
おれの中での大抵の煩いは誤作動。
何かしらがうまくいってないと自分のことばかり考える。しかし、自分のことを考える、ということは
本来自分以外のことを考えているときに発揮されているような気がする。煩っているときのわたしは、とてもせまい。流れのなかにいない。本来のわたしはそんかせせこましいところにいない。もっと、もっと、風が吹き抜けるようなところへ向かっているはずだ。
2022/1/29 19:40
頭のなかで想う「できることなら」であれば、
できるだけ、優しくありたいと思うが、
いざ、誰かを目の前にしたときに、「おれはこの人に優しさを注げない」自分がいる。
どんな人に優しさを注げないのかといえば、
この世に呪詛や鬱々とした言葉を、誰かの前で、
言っている人なんじゃないか(と思っている)。
でも、別にその人を嫌いになりたいわけじゃないし
おれが距離を遠ざけたとしても、たぶん、何も起きない。でも、できるだけ、毎日いい感じに過ごして欲しいとは思うし、なんかできないかな、と思う。
でも、あんまし、自分にできることが、ない。
逆に、なぜおれは毎日いい感じだと感じながら生きているのかなと言えば、おれは愛情を注がれて生きてこれたからだと思う。愛情は概念というよりも、恐ろしいくらいにエネルギーのようなものだと感じる。
でも、それをわかっているのに、愛情を注げない。
できることなら、注ぎたいと思うけれど、どこかにその気持ちに嘘があると感じてしまったらできない。(それってお前の気持ち優先じゃんって感じだけど、愛情をもって嘘をつくことはあっても、愛情の中に嘘はあっちゃダメなんじゃないか、と思うから)
愛情をもって接したいと思うが、どうやって注いだりしてもいいかわからないから、方向の定まらないままに自分のなかでウロウロしている。(それって多分、愛情を持ちたい自分ってだけで、愛情じゃない。あと、たぶん、考え過ぎな気もしている。動いたらわかるだろ、みたいな部分もあるけど。)
誰かや何かを猛烈に愛し、一方で、誰かを嫌っている人をみると、「人間」を見ている気持ちになる。けれど、おれはどこかでそれに憧れもするし、一方でそうなりたくない、気持ちもある。
無償の愛ってのは、あると思っているんだけど、
現状、自分の愛のエネルギーは有限のような気がしていて、できるだけ、自分にだけでないところに、もっと使い切りたいと思うけど、絶対、理念ばっかなんだよなー。あと、女性性が嫌いなのどうにかならないかな。
2022/15:06
ひとりの世界に憧れる。ひとりといっても、孤独ではない、もっと豊かさと寂しさが共存しているような、そんな包まれのなかにあるひとりだ。
でっかい宇宙のなかで、そこにいる、ひたむきに!