1/19 メモ(電話にて)

友人たちとの電話。名前について話で盛り上がる。みな、自分の名前について、想うことがあり書き方を変えたりしているらしい。かくいう自分も最後の名前の1文字を変えたりしているくらい。

そんななかで友人たちと人の名前について考えたことを、メモしておきたい。以下、箇条書き。

 

岡村靖幸の本質は、やすゆきのY(ワイ)にある。

わいせつ、わいだん、ひわい、いんわい、しゅうわい、ここまで言ってしまうとそれって、Y(猥)やんという話ではあるのだが。

 

谷崎潤一郎は、やはり「潤」にあり。

 

村上春樹は、「樹」がポイント-「世界樹」などのイメージをふくめ。しかし、世間は「ハルキスト」という名前をつける。あれがつけられてから、村上春樹を敬遠することが、簡単に、身近になったのだと思う。

村上春樹なら、村上龍だろうか。

人はリュウと彼のことを呼ぶが、実は、かれこそが「村上」なんじゃないか?村上春樹よりも

「村上」に本質があるのが、彼だ。彼が「村上」だ。そうなると、そんな「村上」の流れのなかに出てきたのが、村上隆なのではないか。時代に流れていた村上の波を、村上隆は見ていた。

 

富野由悠季は、最後の「季」に驚きがある。

 

さいとうたかをは、五十音の終わりである「ん」の一歩手前、つまり終わり=死の一歩手前を描きたいから、「を」なのだ。

 

高橋源一郎は、高橋、一郎、という日本語では誰もが知っているような名前の真ん中に「源」オリジン(origin)があること。つまり、平易な言葉を使っているのに、そこに特異性がある、といった彼のスタイルそのものを体現している。

 

岡崎京子の「キョウ」は、みやこ(京)としての

キョウ、今日としての「キョウ」が響く。

都会の今日、過ぎ去っていく空気。

そしてその今日は、小泉今日子の「キョウ」が文化のなかに響いてたこともあいまってできた響きなのかもしれない。

ちなみに安野モヨコ庵野秀明、「アンノ」の響き。「あ」というはじまり、「ん」というおわり。それについての「の」。はじまり おわりそれについて。

大江健三郎は、Oe、小津安二郎は、Ozu

Oe、オエッ、きもちわるさ、えずき

Ozu、終わりのZを忍ばせる。oduではダメだ。

Zのかたちがいいんだ。かつてカフカはKという文字を書くときに吐き気がしたらしい。

KKK、King、Kとは?

 

Dragon ashのkjは、降谷でなく、ケンジのみにこだわる。降谷を忌避するのはなぜ?

 

浅野いにおのいにおはなんなんだ?

 

そんなことをいろいろ話したりした。