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最近、また、永山則夫のことを気にしている。

永山則夫との出会いは、永山則夫のノートの筆跡を見てから。そのときからずっと気になっているし、そこからグッと関心が深まったのは、逮捕された時の写真と、死刑囚になってからの写真の表情がまるで違っていることに気づいてから。なんというか、すごくいい顔をしているのよ。ぽわーっとした穏やかなあたたかみがある、というか。

 

彼のしたこと、してしまったことに、目を背けることはできないけれど、小泉義之という人が言っていたように「殺すことはない」、殺すことはなかったと思う。

 

彼が、そんなあたたかみのあるようなところに至ることができたことに、言葉が、文学?が関わっているのであれば、そこを考えたい。

 

おれは彼ほどの絶望を抱いたことはないけれど、

(というか、絶望はなんなのかいまだにわかってないし、彼の考えたことを絶望という言葉で言っていいのかもわかんない)

あらゆる出来事から、自らの言葉と行動によって、世界との繋がり断ち切った、断ち切らざるを得なかったひとは、自らの言葉と行動によってしか、世界と繋がりなおすことはできないんじゃないかとおもう。

 

けれど、その言葉によって繋がりなおすことこそが、可能性というにはあまりにも大きすぎるけれど、おそらく文学?と呼ばれるものが秘めている、かけがえのない世界への回路だと感じる。