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よく知らない。よくわかっていない。そんな距離のあるものたちがたくさんあるおかげで、自分は日々飽きずに過ごしている。

けれど、もしかしたら、まわりの人たちはよく知っている、よくわかっているからこそ、退屈をしていたり、頭を悩ませているのかもしれない。

いや、そもそも、こんなによく知らないとか、よくわかっていないということを考えたり、思ったりすることこそが、能天気、おめでたき人なのかなとも思う。

ただ、この距離のあること自体に、自分は障壁を感じるどころか、ある種の余白のようなものを感じたりしているのだから、別段、意識しなければ、思い悩むものでもない。むしろ、楽しみと言ってしまってもいい。

 

 

あ、これいいこと言っているな、と思いながらも、それを引用するには気がひける時がある。この気がひける正体は、引用先が哲学者の言葉であったりする時。そんなとき、心のどこかで思うのは、それを引用してしまうと、文章のテンションが変わってしまう、そのテンションでつづけることがなんだかちょっと恥ずかしい思いだ。急に「今から重要なことを言います」と言わんばかりのテンション。そこがちょっと恥ずかしかったりする。

でもそれって、自分がそのテンションでいることができていなかったり、巻き込まれてしまうから、そんなことを思ったりするのであって、なにかもうひとつの、その文章のテンションに引っ張られることのない、さらにまた遠方を見つめるような、大きなテンションを自身のなかにつくりながら、その引用を包んでいれば、そんな思いをもつことはないのかもしれない。

 

感覚に来た、という言葉はなんか恥ずかしい。それを言葉で書くとなおさら。なんだか、自分のバカさ加減を示しているようだ。

だいたいの感覚は言葉でそのしくみは説明できるはず、感覚は感覚と言わずとも、その人のしぐさや動きかたに自然と滲み出てくる。

だから、無闇に、言葉で自分の運動をあてはめなくていい。ひとりでのうごきが、過去の誰かや何かの模倣であることに気づき、あるいはほんの一瞬は、自分だけの歩行なのではないか、ということに気づいたり。わざわざ確かめている暇はない。言いたいこと、つかみたいことの先へぐんぐん進もう。