10/11 1:13

昨日はどうやら寝ぼけたままにアップさせてしまったらしい。とくになにも書くことはない。しかし、とりあえず、手は動かしておこうという気にはなっているので、そのまま動かす。何も読んでいないからか何か話したいことがない。話したいことはある。しかし、その話したいことを話すための、話したいことのの楽しさにコネクトできる話し方、回路のようなものが見つからない。しかし、別にそれができないからと言って困ることもない。少しだけ困るか。

友だちの赤石くんと話していると、この世界にあるあらゆる「動き」のようなものを捉えている、捉えようとすることにこそ、関心があることを思い出す。なぜ、そこに関心があるのかといえば、それによって、生きているからという話にはなるのだと思う。

 

音楽を聴いているときの状態、だれかと話しているときのほんのひとときの共有らしき感覚、ひとりでいるときにあらゆるものたちの「動き」を感ずること(ここの動きというのは、いわゆる動いているものに限らない。とまっているように思えて、あるいはとまっていながらも、動いていることはある、きっと)

おれはひとりであったことなど、ほんとうにあったのだろうか。いわゆる、孤独なるものに立ち会ったことはあるのかしら?孤独なんて言葉、孤独という言葉がつかわれるようなところで生きている人にしか、わざわざ考えを巡らせるのこともないのかもしれない。ひとりでいることがうまくいかないときに、寂しさのようなものはやってくるのかもしれない。

この世には確定できないものがある、と言うのは簡単すぎて、確定できないものの動きを、確定するかたちでなく、その確定できなさが、どのような確定できなさなのか、その確定できなさそのものを感ずることのできるような、そこへダイブしてゆけるような言葉が、大事?。その意味での正確さ、明晰さ。目の前のあるがままさはどのようなあるがままさなのか。どうして、このあるがままが起こっているのか(「起こっている」として見るのも違うのかな?)。このあるがままさはなんなのかしら?

 

こういった確定できなさは(もう、流動的といってもいいのかもしれない)、べつに、本を読まなくたって感じている人はいる(と思う)。おそらく、世界に存在しているであろう動きだから。本を通じてはあるかもしれないが、本の中にあるわけではない(本の中ってどこ?)。だからこそ、すぐそば(そばという言い方でいいのか?)にありながら、いいあらわすことがむずかしい。しかし、ときに言葉が、その流動性のさなかへ入っていく、あるいは流動性の感触を確かめることのできる、トリガーになることはある。でも、なぜ、かくも、この流動性に惹かれるんだろう。もしかしたら、おれはまだ、自身の生命性を充分に発揮できていないのかもしれない。この不確定で、形をもたない、流動的としかいいようのない、(流動的という言葉を使いすぎると、それもまた、流動性を失ってしまう?)生命の凄みのようなものへ気づくことのできるような眼を、まだもつことができていないのかもしれない。「そこにいるだけで意味がある」では弱い、そこにいることは意味はあるだろうが、しかし、それどころの騒ぎではない、騒ぎではないとかいってしまうとそれもまた意味の虚飾を帯びてしまうから気をつけなきゃいけないけども。しかし、そこにいる、ということは、とてつもないことでありながら、そのとてつもなさはあっけなく姿を消してしまうことがある。その繊細な途轍もなさ。すごい。本当にすごいよ。