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いつかの日記で、南方熊楠の全集を買ったが、きっと自分は読まないと書いていた。
3か月ほどたったが、たしかに読んでいなかった。正解。
ディキンソンの原書の全集も買ったけれど、まだ読んでない。
カフカ全集もほんのすこしでとまっている。カフカって面白いんだな、って思ったところでとまっている。
熊楠は、「履歴書」ってところを、パラパラとめくってみたけれど、ふとしたときにまた読めばいいやと思って、読んでない。
ある人の思考のうねりの痕跡が、自分の近くに存在している。それだけでいい。
ぶっちゃけていうと、全集がある、それだけで、とりあえずいい。
ベルクソンは全部集められてないけど、そんな感じでコレクションが自分の近くにある。たまにパッと開いてみると、どれも面白そ~ってなる。やっていることは、音楽の試聴みたいだ。というか、音楽みたいに、パッとひらいて楽しめるところが、ベルクソンにはあるな、と思ったり。
おそらく、本棚を眺めることはほぼ毎日やっている。タイトルもみるだけでも、イメージはふくらむ。とりあえずそれでいい。
よくやるのは、気になっている人と、ほかに気になっている人に接点がないか調べること。このまえ、久しぶりにシモーヌ・ヴェイユという哲学者のことが気になったから、前から気にしている坂口恭平という人と一緒に調べると、やっぱり、坂口恭平はヴェイユに関心をもっていた。ヴェイユ、なんか気になるよね。おれは彼女の本よりも、彼女の写真を見ることが多いかもしれない。
たぶん、日々やっているのは、見ることで読む、歩きながら思う。聴きながら歩いて、なにかを思う、そんなことをやっているように思う。
そのなかで起こっているうねりと、手を動かしながら見えてくるうごき、そのかけあわせによって、より、自身のなかにあるイメージのうごきが見えるようになれば、うれしい。その作業が、どこに向かっているのかはよくわからないけど、おそらく、自身の生のありか、その震源のほとり、みたいなところに向かっているんじゃないかな、と思ったりもする。